一揆と聞いて、貧しい農民が竹やりを持って支配層の武士に対して「世直しじゃー!!」と叫びながら襲い掛かる、といった感じをイメージしないでしょうか。実際に竹やりで戦う一揆はあったそうですが、それは明治に入ってからのもので中世の主な百姓が起こした一揆は基本的には暴力を使用しないものでした。
一揆の作法
一揆を起こすには理由と要求があります。凶作のために年貢・雑公事(今で言うところの税金)の減免や暴利を課している地頭の解職などを領主に要求しました。
その要求方法ですが武器を持って領主のもとに押し掛けるというものではなく、まずは要求内容を書いた書面を領主に送って交渉しました。これを『百姓等申状』といいます。
百姓等申状を提出した上で領主側がこれを受け入れない場合、百姓たちは領主と対立するために儀式を行います。この儀式の名前を『一味神水』といいます。儀式の内容は一揆に加わる全員が神社に集まり、連署(全員が署名すること)した起請文、今でいう契約書(内容は全員が一揆への誓約をし、一致団結する旨が記載)を焼き、その灰を水に混ぜて回し飲みをするというものでした。
【一味】は百姓たち、【神水】は灰を混ぜた水を指しています。昔の話なので信心めいたところもありますが今でいう春闘の決起集会のようなものでしょうか。ちなみに起請文は燃やして灰にしてしまうだけだと残らないので、写しを用意して領主側に送ります。手続きとして、領主に宣言してから一揆を開始します。
一揆という名のストライキ
さて領主側に対立を宣言した百姓たちは一揆を始めるわけですが、襲撃やデモはしません。仕事を放棄して山に逃げ込むストライキを行います。これを『逃散』といいます。
百姓たちは領主が要求も認めるまで働きません。では領主側は武力行使するかというとできません。百姓たちは手続きに則っているので、合法的に抗議をしていると認められました。中世においても法的な考えがありました。ただ百姓たちもずっと働かないでもいれません。
逃散が行われたのは稲の収穫後になるため、大体は秋~冬に行われていました。平素であれば百姓たちは冬に麦まきをします。麦は夏に収穫して食料にするため、麦まきをしておかないと夏に飢えてしまいます。背に腹は代えられないので逃散しつつも密かに麦まきを行ったそうです。ただ領主側も黙って見逃しません。年貢が未入のままでは働くことを認めるわけにはいかないので鍬を奪い取るなどして労働を阻止しました。こうして百姓側が折れるか、領主側が要求を呑むかで逃散は終了します。

このように百姓は一方的に領主に従属しているわけでなく、不条理があれば訴えていました。また鎌倉幕府の法律である『御成敗式目』でも年貢未納で逃亡した農民の妻子・家財の略奪は禁止、未納分の年貢を支払えば自由の身になれることが定められており、案外と法的な社会だったようです。



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