前の記事で中世の土地は公領・荘園で構成されていたと書きましたがスタートから荘園があったかというと 違います。また土地制度も古代と中世では違いました。荘園ができる前の土地制度をご説明します。
始まりは大化の改新
古代の土地は各地方を有力豪族が支配しており、ヤマト政権(後の朝廷)は各豪族が連合で構成されていました。当初は近畿地方中心を支配し、次第に地方に勢力を広げていきます。地方豪族はヤマト政権から『国造(くにやっこ)』に任命され、各地を治めました。645年『乙巳(いっし)の変』で蘇我氏を中大兄皇子・中臣鎌足らが討ち、政治改革を行いました。この新政治を『大化の改新』といいます。
これにより行政区分を各地方で“国”に分けて各国に『国宰(のちの国司)』を派遣し、今までの国造である地方豪族を『評司(のちの郡司)』に任命し国の下に郡を置きました。大化の改新は中国を模した朝廷をトップとした中央集権を目指した政治改革でした。
班田収授法による課税
701年(大宝元年)に唐の律令制を模倣した法律『大宝律令』が制定されました。これにより刑法・行政法・民法が定められ官僚組織が整備されました。現代でいうと“憲法と政府”が新しく制定された形になります。律令に基づいて『班田収授法』が実地されました。6歳以上の男女に決まった土地『口分田』を与えて、税として『租・庸・調』取りました。当初は土地を与えられた人が亡くなると朝廷に土地を返す仕組みでした。

※庸・調・雑徭は年齢によって軽減されました。 少丁(17~20歳の男性)は調・雑徭は4分の1、庸は無し 老丁(61~65歳の男性)は半分になりました。

※奴は男、婢は女で奴隷のことを『奴婢』といい、賎民とも呼ばれ一般人の『良民』と差別され当時は人間の売買が認められていました。奴婢は人口の約10%といわれています。
しかし庶民にとって税の取り立ては厳しく、税には『雑徭』という徴兵制もあり土地を捨てて逃亡する『浮浪人』が多く出ました。当然、耕作するものがいなくなるので土地は荒れて税が取れなくなります。
こうした状況を打開すべく朝廷は723年に『三世一身法』を出します。これは今まで一世代のみに所有が限られていた土地を新しく開墾した土地は3世代まで所有を認めるものでした。お爺ちゃんまでの土地はお爺ちゃんが亡くなっても自分のものになるということですね。
しかし効果はあまり見込めませんでした。というのも土地の所有者はいくら農地開発をしても結局は国に土地を返さなければならないので利益が残りません。一時的な効果はありましたが所有権利の期限が迫ってくると耕作意欲が低下していき再び土地が荒廃していく恐れがあり、朝廷は新しく開墾した土地は永続的に所有を認めることにせざるを得ませんでした。
墾田永年私財法からの初期荘園
新しく開墾した土地は永代の私有化を認める『墾田永年私財法』が743年に出されました。これで国ではなく民間の土地である荘園が作られました。こうして出来た荘園をその名の通り『初期荘園』と呼びます。
ただ水田を開墾する際は国の管理する用水路を使用すると朝廷支配下の『公田』になってしまうため、新しく用水路を作る必要がありました。また朝廷の許可も必要だったため誰でも開墾ができるわけではなく、資金のある寺社や貴族が荘園を作っていきました。
初期荘園は平安・鎌倉時代のような武士が支配している領域はなく、定住している農民もいませんでした。農具・種籾・農科(賃金と食料)を保管した倉庫兼事務所の『荘所』を墾田と開墾予定地におき、周辺農民を雇って耕作しました。農民は自分の耕作する口分田も持っているので現代の感覚だと本業とは別に副業やパート・アルバイトに近い形で人を雇っていたようです。
荘園も朝廷の納税義務はありましたが“租・庸・調”の中で少額の“租”のみを納めればよかったので開発が進んでいきました。開墾した土地のことを『名田』と呼び、9世紀になると『名主』と呼ばれる有力な農民も出てき始め武装化して土地を守りました。これが最下層の武士の始まりとの説もあるそうです。
※武士の誕生には諸説あります。
“朝廷の土地制度がうまくいかず、利益をもたらすことで寺社・貴族に開墾を促進した”のが荘園の起こりといえます。現代に置き換えると“国有企業が経営悪化のため、自由競争のできる民営化をした“といえるでしょうか。いつの時代も似たようなことはあるんですね。 ちなみに“荘園”という言葉は“荘=私有地の建物(荘所)”“園=私有地の土地(墾田)”で荘園と呼ぶそうです。次回は時代による荘園の変化を書いていきたいと思います。



コメント