歴史ドラマ・小説で必ずと言って出てくる職業といえば”武士”だと思います。ただ武士がどうやって生まれたかを知っている人は少ないかと思います。
昔だと“有力な農民が土地を守るために武装してそれが武士の起こりとなった”という説もあるそうですが朝廷との関係や専門的な技能を有している武士の起源が農民とは考え難く、現在では否定されているそうです。武士の起源は複数の説があるそうですがその一つを簡単にご説明します。
武士の規定
まずは武士とは何かを先に規定したいと思います。江戸時代では『士農工商』といって身分を明確に分け、幕府の役人として武士が存在しました。その前の戦国時代になると末端の武士と百姓の区別が難しく、出自も曖昧な人が多いです。
故に今回は平安・鎌倉時代の武士で以下の3点を有しているものを武士と規定します。
- 在地領主として領地を持っていること
- 弓馬の道(乗馬・弓術)の技能があること
- 代々の家系が武家とされていること
実例を挙げると“源義朝”“上総広常”“畠山重忠”等になります。彼らのルーツをこれから説明していきます。
古代は弩・歩兵中心の軍隊
古代の律令軍制は民衆からの徴兵制により兵を集めていました。徴収された兵士は京で警護や辺境では『防人』と呼ばれ、防備に当たりました。主な敵は『新羅海賊』で使用した主要武器は『弩(おおゆみ)』という発射台に大型の弓を水平に取り付けた兵器で兵士は歩兵でした。
これらは海防を目的とした軍事で弩は設置が必要、歩兵は鉄製の甲冑をした重装備で機動性がありませんでした。
蝦夷・僦馬の党の騎兵軍団
9世紀に入って弩・歩兵中心から弓・騎兵中心の兵科に軍事改革がありました。理由としては敵対国である新羅が滅亡して海防の重要性が低くなったこと、東北地方の『蝦夷(俘囚)』の反乱や東国で群党蜂起した『僦馬の党』の対応で機動性のある軍隊が必要になったためでした。
この場合の“蝦夷”とは東北地方の先住民のこと(※アイヌ民族も“蝦夷”と呼ばれます)で朝廷に服従した人々を“俘囚”と呼びました。彼らは狩猟民族で弓馬に優れた騎兵軍団でした。878年に起きた『元慶の乱』では蜂起し、朝廷は最終的に武力制圧出来ずに寛政により鎮撫して乱を終結させました。
僦馬の党とは東国で蜂起した弓馬で武装した盗賊団です。彼らは富豪層・百姓・隷属民・流人も含む大規模なもので国司・国衙や京へ送る年貢を襲撃・強奪をしました。この集団の厄介なところは騎馬のため機動性が高いことで追討軍がきても素早く逃げてしまうため歩兵での討伐は困難でした。
職業軍人の誕生
目には目を歯には歯を”蝦夷・僦馬の党に対応するため朝廷軍は歩兵から騎兵への軍事改革が必要になりました。従来は一般民衆(班田農民)から税として徴兵していた兵士を郡司(地方役人)の子弟等から弓馬の得意なものを集めて軍隊を編成しました。これを『健児制』といい、素人を集めた軍団から戦闘専用の精鋭部隊に軍隊は編成されました。こうした職業としての軍事は親から子へと継承され、軍事を担っている一族は『兵の家』と呼ばれるようになり、京で朝廷に仕えるものや各地方に土着していきます。 もうお分かりですね?この職業軍人が武士のスタートです。

拡大していく武士
武士とは似たような“侍”という言葉がありますが、これは貴族に近侍すること“さぶらう”というのが語源で朝廷の官職『諸大夫・侍』は六位以下の有官位者を指しました。故に初期の武士とは官位を持った中・下級貴族でもありました。
※武士=侍ではありませんが、今回は割愛します。
ただ身分が上なのは帝や藤原氏など摂関家等であって、武士は上級貴族に従っている形で『文高武低』社会でした。ただ戦争となると武士の力は必須で次第に力をつけていきます。
935年に初の武士の反乱である『平将門の乱』が勃発します(ちなみに平将門は元受領で任期後に地方に土着した中流貴族でもあります)。これを討伐したのが同じく武士である『平貞盛・藤原秀郷』(伊勢平氏・奥州藤原氏の祖)の両名で、追討の恩賞として勢力を広げていきます。
その後も『藤原純友の乱』『平忠常の乱』『前九年・後三年の役』などの戦乱を経て武士の力が段々と大きくなってきます。皮肉にも武士を討伐するために活躍した武士が朝廷をも凌ぐ勢力へと大きくなっていきました。その結果、平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府に繋がっていきます。
まとめ
以下、武士の起源の要点3つをまとめると
- 乱対応のため集められた弓馬の精鋭集団
- 職業軍人を家業としてきた一族
- 中・下級貴族であった武士が戦争によって次第に力を持つようになった
武士のトップは元々、源氏・平氏などの貴族でもありました。時代が下るにつれ有力農民であったものが『地侍』となり武力で地域を支配するようになります。国人や地侍の説明はまた別の記事でできればと思います。



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