【平安・鎌倉】源平合戦の『源平』とは?

合戦

“『源平合戦』とは源氏と平氏が争った戦い”といって全く誤りではないですが正解というわけでもないです。源氏の白旗、平氏の紅旗は運動会の紅白帽子の由来でもあるそうですが単純に紅白の“源氏VS平氏”ではありませんでした。

平氏≠平家

 まず平氏といっても4つ一族がいました。“桓武平氏”“仁明平氏”“文徳平氏”“光考平氏”の内、桓武天皇の子孫から『臣籍降下』(皇族をやめて臣下になること)し平氏性を賜った桓武平氏が栄えていきます。(他3つは数代で途絶えました。)

なので“平家”とは桓武平氏の流れをくむ一族になります。ただ桓武平氏も複数に流派で分かれていて、その中で『伊勢平氏』と呼ばれる流派が平家にあたります。これが源平合戦の“平”の部分です。

桓武平氏

上図のように源平合戦の平家とは伊勢平氏である平清盛の一族を指します。“平家にあらずんば人にあらず”は数ある平氏一族の一部の平氏のみでした。

平家ではない平氏“坂東八平氏”

 9世紀末頃の東国は非常に治安が悪化していました。『僦馬の党』と呼ばれる武装集団の略奪行為が後を絶ちませんでした。

これに対して朝廷は軍事貴族である桓武平氏の始祖『平高望』を上総介として東国に派遣しました。高望は上総介の任期が終わったのちも東国に留まり勢力を拡大していきました。その子の『平良文』の子孫たちが坂東の各地に勢力を築きました。これが源平合戦でも活躍する“上総広常”“梶原景時”“畠山重忠”などの武士たちのルーツになります。(系図は上図参考)ちなみに鎌倉の初代執権になる北条氏は坂東八平氏ではなく、伊勢平家の先祖の平貞守から枝分かれする系図になっています。 

伊勢平家のように京都の朝廷に仕えて活動する武士を『京武者』といい、それに対して坂東八平氏のように武士が地方に下って基盤を作り活動することを『留住』といいました。

清和源氏とは?

 平氏と同じく源氏も元は皇族で源氏姓を賜った一族です。また複数の一族がいて『源氏二十一流』と呼ばれる21の流派がありました。この中の一つが清和天皇を祖とし、武家として栄えた『清和源氏』です。その他の源氏は公家として栄えていきました。

ちなみに幕末に登場する岩倉具視は村上源氏にあたるそうです。 清和源氏の一族の中で複数に流派が分かれていきます。以下、系図になります。

清和源氏

分かれた流派は根拠地にした地名をつけて呼ばれました。“甲斐源氏”はかの武田信玄の流派に当たります。この中で“源氏の嫡流”とされたのが『河内源氏』です。ではなぜ河内源氏が嫡流、武家の棟梁つまり一族のトップとされたのでしょうか?

前九年・後三年合戦と源義家

 1050年に安倍頼良が陸奥国司を襲撃が発端となり12年余り続いた東北の反乱を『前九年合戦』、1083~1087年に同じく東北での覇権を巡って清原家衡と藤原清衡(後の奥州藤原氏の租)の争いを『後三年合戦』といいます。

この戦で武名を上げたのが河内源氏の『源頼義』とその子の『源義家』でした。従軍する東国の武士たちと主従関係を結び勢力を広げ(上述した坂東八平氏も頼義・義家に従っています。)、また後三年合戦で義家は朝廷から私闘とみなされ恩賞がなかった際に自らの所領を配下の武士たちに分け与えました。

こうして武士たちからの信望を得て、清和源氏の中でも河内源氏が棟梁といわれるようになりました。

平家ではなく源氏に従った平氏

 京武者として伊勢平氏と河内源氏は繁栄しましたが、1159年の『平治の乱』で源義朝が敗れ、平清盛が台頭しました。この時に義朝に味方していた武士たちも平家に従い、敗れた源氏の子孫は流罪になるなど力を失いました。

その後の約20年、平清盛は太政大臣に任命され平家は栄華を極めました。ただ平家の独占政治により、平家一門に与するものが利益を得て、それ以外の一族は自分の領地が脅かされるようになりました。 

そうした中、1180年に以仁王の平家討伐の令旨が出され、摂津源氏である源頼政が挙兵しました。この挙兵は鎮圧されましたが同年8月に源頼朝が挙兵をします。初戦の石橋山の戦いでは惨敗しますが、その後は安房に逃れて再起を図りました。 

頼朝のもとには有力な武士である千葉常胤や上総広常などが集まってきました。彼らは所領を平家とつながりのある国守に脅かされており、頼朝に従うことは自領を守ることになり利害が一致しました。頼朝の勢力が拡大してくると先の戦いで敵方だった畠山重忠や梶原景時なども参向してきました。

いずれも坂東八平氏で源義家の頃からの家人の縁とも言えますが坂東での旗色が悪くなったので頼朝側についた形になるかと思います。当時の武士たちは一番大事なのは自領を守ることであって忠義というのは薄かったようです。

“武士道”での忠義心は江戸時代に説かれているもので、鎌倉時代は『恩こそ主よ』で土地の保証に対しての主従でした。『御恩と奉公』の考えですね。

 このように源平合戦とは源平2つの一族が覇権を争った戦いというよりも各武士たちが自分の所領を守るための争いといっていいかと思います。

系図的には平家に近い坂東八平氏や北条氏も平家一門の恩恵は受けていませんでした。源氏に従った武士たちは代々の忠義を示したというよりは自領を守るため、頼朝を神輿として利用したともいえます。

近年の学会では源平合戦は平家滅亡後の『奥州合戦』も含めて『治承・寿永の内乱』と呼ばれるそうです。今回は源氏・平氏の話でしたので武士つながりということで次回は武士の起源について書いていきたいと思います。

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