「やぁやぁ!我こそは武蔵国平山郷の住人、平山季重なり!」と名乗りを上げた騎馬武者が戦場を駆け、相手も名乗りを上げた後に正々堂々と一対一で戦う―いわゆる“一騎打ち”を鎌倉武士の合戦というと想像しますでしょうか?勇ましくスポーツマンシップ溢れる光景ですが殺し合いである戦で実際にあったのか、前回の記事では出陣まで書きましたので今回は進軍から鎌倉時代の合戦の手順・方法をご説明していきます。
大規模な集団出張
いざ出陣!といって出発するのは戦う武士のみではありません。遠征の場合は兵糧を運ぶ荷駄隊や敵の堀などの防塁の撤去や馬の世話をする陣夫などの百姓も伴います。
また武士も常に武装してはいません。大鎧は非常に重いため『鎧着所役』『兜持役』といわれる担当者がそれぞれ主人の鎧と兜を着用して移動しました。武器は得物ごとに『矢櫃持』『長刀持』『太刀持』に持たせ、移動・戦闘用の馬もスペアの『乗替馬』も用意します。さらには軍団の印である旗を持つ『旗差』が流れ旗を持ちました。

※決起することを“旗揚げ”、形勢不利なことを“旗色が悪い”の語源だそうです
その他にも合図に使う太鼓・鐘を持つ係の『太鼓所持』『鐘役』等があり、様々な人・物が移動しました。 このような大人数が何日も移動・宿泊するということは陣中で生活をすることになります。
昔も人が多く集まる場所はビジネスチャンスがあり、陣中には農漁民・商人が物売りに、近くの宿駅からは遊女が集まりました。もちろん略奪や暴力の危険もあります。これは敵地の住民だけでなく味方同士にも言えることで盗難や酷いものは敵の首を取った武士が殺され手柄の首が奪われる『奪首』あったそうで、人が集まることで起こる利益やトラブルが陣中にはありました。
合戦開始!の前手順
武士にとって戦は仕事、集団で仕事をする上で必ずあるものといえば会議です。武士も同じで合戦前に何処で誰がどうやって戦えば勝てるのか?を指揮官たちを集めて作戦会議を行います。これを『軍評定』といって、戦略的な話をする出陣前と戦術的な話をする出陣後に行う2パターンありました。一族の興亡がかかっていますので武士たちは議論を重ねたうえで決戦に挑みました。
さて軍評定を終えて敵味方の両軍が近づき弓矢も届きそうな距離になり、いよいよ戦闘か!といったところで両者お互いに使者を送ります。やはり戦となると大事なので話し合いで引き分けになることもあったそうです。これを『物分れ』(“物とは合戦のこと”)といいます。
交渉決裂し戦闘が決定!となっても場合によってはすぐに戦いません。各陣営の代表者が前に出て大声で自分たちの正当性を訴え相手を誹謗中傷します。現代で言うところのレスバを『言葉戦い』といい、有名なのが源頼朝挙兵の“石橋山合戦”で北条時政と大庭影親とのやりとり(大河ドラマでもありましたね)の一部を超訳すると、
時政「源氏の世話になったオメェの曾ジジイの恩を仇で返すか!サッサとしっぽ巻いて引き返せぇ!」
影親「昔は昔、今は今で平家のおかげで飯が食えるからー…そんな昔のこと言いだされても困るし、恩こそ主だし」
とても分かりづらいですが北条時政は代々の源氏主従の正当性を強調し、大庭影親は現状での恩(領地の保証)から平家主従を表明しています。これで自軍の義理を訴えて味方の士気を高めました。やはり戦うには大義名分が必要なのですね。
鎌倉武士の戦い方 一騎打ちの有無
【1.開戦の合図】
一通り罵り合った後はいよいよ戦闘開始です!が、スタートにも手順があります。まずは戦いに挑む側から代表者が『鏑矢』という矢先が二股に分かれている矢を敵陣に向かって放ちます。これは攻撃ではなく放たれた際に鳴る鏑矢の笛のようなポゥーッという音をスタートの合図にしました。相手方も返事として鏑矢を射返して開戦となります。
※ちなみに大河ドラマ“鎌倉殿の13人”では畠山重忠の乱で鏑矢の描写がありましたね。映像ドラマでの再現を初めてみました。
【2.遠距離戦】
いざ合戦!となってもいきなり刀で斬り合う白兵戦は行いません。まずは『垣楯(かいだて)』と呼ばれる楯で防御をしながら弓矢を射かけて少しずつ前進します。楯と弓で担当者は分けて、楯持ち役が列になって防御して後ろから弓矢役が攻撃します。

楯を使った戦いを『楯突き軍』、矢を射合う戦いを『矢軍(やいくさ)』といいます。こうして双方が前進して相手の陣形が崩れたところで後ろに控えていた騎馬武者・徒歩武者が突撃して接近戦へとフェーズが移っていきます。
【3.接近戦 一騎打ちのルール】
鎌倉時代の主力兵器というと“騎馬武者による騎射”でした。室町時代以降は戦争が大規模・長期化したことにより戦闘方法の集団化が進んで主要武器が誰でも扱いやすい槍が、戦国時代は鉄砲が登場します。ただ鎌倉時代おおよそ130年で大きな戦争といえば“治承・寿永の内乱”“承久の乱”“元寇”くらいで職業としての戦士はあまり多くはありませんでした。
軍隊も室町・戦国に比べると少数精鋭のため、戦い方は大鎧の重装装備で防御を固めて馬に乗って弓で近距離から相手を射撃しました。マンツーマン勝負なら脅威ですが大人数に囲まれてしまうと不利に感じますよね。また大鎧はかなり重いため馬から降りてしまうと逃げることは出来ません。一騎打ちを想定した装備ということになります。
一騎打ちの戦い方は敵方に名乗りを上げて(家名・年齢・武勲など)挑みかけます。敵方も応じて一騎打ちの勝負となります。この時は敵味方とも助太刀は禁止で勝敗を見守るのがルールでした。名乗りが済むと進み出てまずは騎馬で弓の戦いになり、『馳組み』といってお互いに反時計回りに駆けて弓を射合います。(射程距離は約13メートルと近距離)

※一射して外した場合は次の矢を素早く構えるのが“矢継ぎ早”の語源になりました。
※参考に“今昔物語(25巻第3話)”で源宛と平良文が一騎打ちする話がありますが家来たちが見守る中、2騎だけで弓の勝負をするという場面があります。
弓で勝負がつかない、もしくは矢が尽きた場合は次に馬上から刀で戦う『太刀打ち戦』となり、それでも勝負がつかなければ『組打ち』となり馬上で取っ組み合い、場合によっては地面に落ちて組み合って相手を組み敷いて(両膝で相手の両腕を抑え込んで)『鎧通し』という短刀で首を掻いて勝負がつきます。この際もルールとしては手出し無用の一対一で戦いが行われます。

【4.一騎打ちの実際】
ただ冒頭でも書いたように自分の命、ましてや一族の命運が掛かった戦いでフェアプレー精神を維持できるでしょうか?そこで貴重な証言が平家物語に残っています。 時は1180年8月、源頼朝挙兵に加わる三浦一族が平家側の畠山重忠と遭遇した際に三浦方の和田義盛が出陣したこと19回のベテランである三浦真光(58)に馳組み戦のアドバイスを求めたところ(以下、意訳)
真光「馳組みはお互いに相手を弓の射易い左手側に誘い込むじゃ、その時に弓の弦が緩まぬように注意せぇ。 鎧は継ぎ目の隙間が弱点だから常に体を揺らして、兜内側の額は狙われるから気をつけよ。」
まずはディフェンスからの指導が玄人っぽいですね。次はオフェンス指導です。
真光「矢を一発放ったらすぐに次の矢を構えろ。相手の兜内側の額を狙って射れ。あと無駄に矢は打つんじゃねぇぞ。」
ここまでは正しい一騎打ちの心得です。実践的な的確な助言、いい先輩ですね。問題は次の話になります。
真光「昔はなかったんだが、近頃は馬を狙って射て振り下ろされた敵を討つようになったなぁ。 最近だと、いきなり馬上から組み付いて馬から落とした後に刀で戦うようになっちまった…。」
最近の若者は~、のような哀愁を感じますがこれは平安時代末期で戦い方が変わってきていることを意味します。真光さんにとっての昔の戦いをおおよそ20年前の『平治の乱』(1159年)としますと、兵の動員人数が双方合わせて1000騎に満たなかったものが石橋山の戦いでは頼朝軍300騎VS平家方3000騎と(頼朝軍は少ないですが)と多くなっています。また戦う場所も平治の乱は主に京都が主戦場ですが石橋山の戦い以降の源平合戦は全国に広がっています。 このように規模が大きく人数が多くなったということは戦う人間の種類が増えたということになります。
馳組み戦は馬を操って弓を射る“武士”という弓馬の家に生まれて幼い頃からトレーニングをしているものにしかできません。源平合戦の徴兵対象は“武器を持てる者”とされ有力百姓までが動員されました。彼らは弓馬の心得はないため、馬に乗って弓を打ち合うのではなく、弓矢や馬での体当たり『馬当て』で敵を馬から落として白兵戦をしました。
※因みに白兵戦・組打ちから相撲が武芸として武士文化に根付きました。
ここで話の矛盾が出てきました。前項では武士は少数精鋭で集団戦は想定していなかったと書きました。本項では素人軍人も含め大規模化になっていったと書いています。では信憑性があるのはどちらかというと、どちらもあります。
折衷案的な結論ですが室町・戦国ほど集団戦でもないが平安初期のような武士のみの戦いでもなかった、というところです。一騎打ちの有無をまとめますと、
平安初期~中期の武士のみの戦いではあった。平安末期あたりでは建前としてはあったが、実際は人馬が入り乱れた乱戦であった。
真光さんも戦いの変化に嘆いているので、あくまで推測ですが一応建前として一騎打ちは残っていたとは思います。源義経の奇襲戦法は当時批判されていますし、防具として大鎧は使用しているので騎射はあったはずです。戦国時代の足軽のような組織だった戦い方はしてないにしても正々堂々ではなく個々人の乱戦という感じでしょうか。現代で例えるとヤンキー漫画の抗争シーンみたいなイメージ?
戦の評価?サラリーマンな武士たち?
何故に武士たちは戦をするのか?一つの理由としては自分たちの領土を守るために戦うことが彼らの仕事でした。そして新たな領土や褒美を得るために、会社で働く人々と同じく給料アップを武士たちは望みました。
給料アップするためには評価されなければ、評価されるには結果を報告しなければなりません。戦の結果の報告を『軍忠申請』、これを受けて承認することを『軍功認定』といいます。 吾妻鏡には軍忠申請にまつわる話があります。
1184年に近江で木曽義仲を討った戦勝報告が鎌倉に届きました。報告は安田義定・源範頼・一条忠頼の3人の使者からされ、頼朝が3人から詳細を聞いているところに梶原景時からの使者が到着します。この使者は討ち取った人と捕らえた人を記録したリストを持参して報告しました。これに上司である頼朝はニッコリ、景時さんは仕事のできる人だったのですね。
また報告の確認では『首実検』という名前の通り誰が誰の首級を取ったか確認する業務があります。これによって手柄が確定するので武士たちも必死です。中には味方の首を奪って自分の手柄にする者もおり、奪われたほうは後で自分の取った首だと証明できるように首級の耳を切り取って首実検の際に首と耳を照合させて手柄を確定させた話もあります。
その他にも敵陣に一番乗りする『先駆・先陣』や負傷・戦死も軍功とされたため、お互いに軍功の確認・証明する約束や周囲から目立つように名乗りを上げたり、盛んに自己アピールをしていました。戦は命だけでなく生活が懸かっていたんですねぇ。
軍功認定されて受け取る恩賞は土地や戦利品の財物、朝廷の官職が与えられました。その際には『感状』といった主君から感謝状が贈られました。内容は「○○の戦いで××の手柄を立てた。褒美として△△を与える。今後も励むように」といった形式的なものでした。良くも悪くも何か日本っぽい感じがします・・・。
まとめ
少々長くなりましたが箇条書きでまとめますと、
- 戦に参加するは戦う武士だけではなく、兵糧輸送の陣夫などの百姓もいる。
- すぐに開戦!という訳ではなく交渉や言葉戦いと手順がある。
- 前半は弓矢で遠距離戦、後半は弓馬・太刀などでの接近戦。
- 一騎打ちは昔(平安)はあったが今(鎌倉)は徐々に減って乱戦が増えてきた。
- 恩賞を確保するため武士たちは必死に自己アピールした。
- 恩賞は土地・財物・官職、感謝状もあるけど形式的・・・。
以上、鎌倉武士の合戦ルールでした。生きている時代は違うとはいえ鎌倉武士も働くおじさん。何か哀愁を感じさせます。



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