“荘園”は難しい!とよく聞きますし、そう思います。現代の市町村のように明確では なく、時代によって形態が違い権利者も複数いるかつ荘園とは別にまた公領があるので非 常に分かりづらいのです。今回は荘園の成り立ちから形態の変化を自学の範囲で分かりやすくまとめてみたいと思います。
荘園スタート【初期荘園】[8 C]
荘園とは何かと一言でまとめるなら“貴族や寺社の私有地”と言えます。現代で置き換 えると民間企業の土地といえるでしょうか。反対に国の土地は国衙・公領に当たります。 ただ古代から荘園があったわけではなく、始めは国の土地のみでした。
◆うまくいかない班田制
6 世紀は『班田収授法』のもと朝廷が農民一人一人に土地『口分田』を貸し与えて税を取 っていました。しかし人口の増加から土地不足、また税の取り立てが厳しく農民が逃亡し て土地が荒廃し税収難に陥ってしまいます。新田開発もなかなか進みません。結局、新た に土地を開拓しても自分の財産にはならず、国のものになってしまうため誰も力を入れて 開墾活動をしませんでした。
朝廷は土地不足解消の政策として 743 年に『墾田永年私財法』発布、これにより“新し く開墾した土地は私有化してよい”ことになりました。資本力がある貴族・寺社が灌漑施 設を整備、多くの人夫を導入して新たな土地を開墾していきました。これが荘園の始まり 『初期荘園』が生まれました。
◆初期荘園はアルバイト契約
この時の荘園は中世のように境界は決まっておらず、拠点となる倉庫兼事務所の『荘所』 を開墾地に置いて活動しました。農民も定住した専任者はいなく郡司(在地有力者の地方役 人)と協力し周辺の農民を集めて作業を行いました。農民も自分の口分田を持っているので アルバイトやパート感覚で出稼ぎをしている形でしょうか。

私有地といっても初期荘園は税金も支払います。国司(朝廷の役人)には口分田と同じく 『租(稲)』を支払い、収穫の 2~3 割を『地子』として荘園領主の収益になりました。 始めは開墾する土地の広さは身分によって制限(大貴族や寺社は 500 町、一般農民は 10 町)されましたが、772 年には土地所有面積の制限も撤廃され荘園の大規模化が加速します。
強かな農民【免田型荘園】[9〜10 C]
◆有力農民の成長
新たに開墾が進んでいく中で農業経営の成功した『力田の輩』と呼ばれる有力農民が出 てきました。彼らは浪人(口分田から逃亡した人)を集めて田地開発を行い、『利稲』といっ て種籾を高利貸して富豪層に成長します。現代に置き換えるとベンチャー企業が成長しい った形が近いでしょうか。
それとは逆に昔から地方有力者であった郡司の力が弱まっていきます。初期荘園は郡司 の影響力で成り立っていたため、次第に荒廃していきました。ここで困るのが朝廷です。 役人でもあった郡司の力が弱くなると徴税に影響が出てしまします。
そこで朝廷は郡司の 上階層にあたる国司に権力を集中させます。(今でいう国司は県知事、郡司は市長)任国に直接赴き納入責任がる国司は『受領』といい、決まった税を朝廷に納めれば両国経営の方法 は自由『国司の徴税請負人化』でした。国司の裁量一つで荘園の減税や廃止が決められ、『成 功(じょうごう)』といって必要以上に朝廷に納税して出世を狙うものもいました。
・国司に認可された荘園を『国免荘』と呼ぶ
◆有力農民VS国司
極端にいうと【有力農民 VS 国司】の状況になります。国司は富豪層である有力農 民から多くの税を取りたく、取られる側はそれを抑えたい。そこで有力農民は自らの土地 の領主権を貴族や寺社に寄進します。
貴族や寺社は中央政府である朝廷に影響力があり、 『不輸・不入の権』(税を朝廷に納めない権利・役人の立ち入りを拒む権利)を持っていま した。この権力者を利用して役人である国司に圧力をかけて減免をさせました。このよう に寄進・減免された荘園を『免田型荘園(寄進地系荘園)』と呼びます。

◆課税が人から土地に変わっていく
したたかな農民ですが国司の方も負けてはいません。先述した通り郡司の力は弱くなっ ていましたが役職自体はまだ存在しました。この頃に郡司制度が変わり、元々は地方豪族 の世襲制であったものを国司が自由に任命できるようになりました。(『擬任郡司』)
国司は 有力農民を郡司に任命し、国衙組織の末端に加えました。耕地を『名』という単位に分け て農民に耕作と納税をさせました。これを『負名制』といい、班田制は人に対して課税し た人頭税から土地に対して課税する人頭税になっていきました。
大企業荘園【領域型荘園】[11 C]
◆国司の権限制限
10 世紀末には国司の権力集中で横暴な苛政を行うものも出てきて地方から朝廷に上訴す る件が多発しました。朝廷も問題視し国司の裁量を制限します。『公田官物率法』を制定し 国ごとに税率と品目を決めました。
また徴税などの実務は地元に根付いた有力者を在庁官 人として起用し国衙運営にあたりました。この在庁官人が公領で『郡司・郷司』、荘園で『荘 官・下司』と呼ばれる在地領主、が武士になります。
※恐らく郡司は擬任郡司と別だと思います。
◆“荘園の見える化”を試みるも・・・
荘園も数の増え過ぎや寄進されているため徴税ができないもの、公領と荘園の境が分か らないものなど乱立しました。これを解消すべく朝廷は『荘園整理令』を発布します。
これによって国司に不要な荘園の廃止の権限を与えて、それを交渉材料に各荘園から 『一国平均役』という追加徴税をしようと試みました。一国平均役は後に全国に発布しま したが荘園整理令自体はあまり効果がありませんでした。
やはり貴族・寺社の息のかかっ た荘園を国司は自身の出世にも影響するので無下にはできなかったようです。 そんな中で後三条天皇が 1069 年に発布した『延久の荘園整理令』は天皇の名のもとに貴 族・寺社を干渉させずに審査を行い、荘園・公領の分別を明確化する成果を上げました。
ただ全ての荘園を対象にはできなく、最上級の権力者である【天皇家や摂関家】クラスの 荘園の一部は例外とされました。また荘園領主である貴族・寺社が上階級である摂関家に 寄進を行えば【本家(摂関家)➡領家(貴族)】の関係がつくられ荘園整理令を回避できました ので天皇家・摂関家が複数の荘園を持つようになります。こうした本家を頂点としてピラ ミッド型の支配を『職の体系』といいます。

元々は国が土地を把握・徴税する政策でした が結果としては権力者による荘園の独占化が進んでいきました。
◆大荘園の誕生
こうした中で天皇家・大貴族は大規模な周囲一帯を領地とする荘園を設立していきまし た。これを『領域型荘園』といいます。
今までとの違いは免田型荘園の範囲は指定された 田畑のみで、『四至(しいし)』(東西南北の境界の印)で囲った開発予定地は新田開発をしても 公領並みに多く課税されます。しかし領域型荘園は開発予定地や周囲の山野をまとめて領域とし特権で不輸・不入の権が認められました。

こうして公領から独立した広大な“荘園” が誕生していきました。
◆荘園領主に与する国司
荘園から課税できなくなるので国司は反対しなかったのか?これには理由があります。 この頃、朝廷は財源不足により仕えている上級貴族への給与を捻出するのが難しくなって いました。そこで地方の支配権を有力者に与える『知行国制』制度を導入します。
これに より『知行国主』となった皇族・貴族・寺社は朝廷に地方税を納める代わりに自らの裁量 で国司を任命、税収管理を出来るようになります。つまり皇族・有力貴族の部下を国司に 任命できるため、地方に自分の荘園を作ったとしても地方の知事である国司も自分の配下 のため反対されることはない状況でした。

こうして皇族・貴族・寺社は公領・荘園のどちらも支配し、荘園が国土の約 6 割にまで 増えていきました。(公領 4:荘園 6)このような公領と荘園を合わせた土地の支配体制を『荘 園公領制』といいます。
まとめ
以上、成立から発展を箇条書きしますと、
- 開墾の自由化から“初期荘園”が生まれた。
- 税収から逃れるため農民が貴族に土地を寄進して成立した“免田型荘園”
- 権力者の土地の独占・拡大化から“領域型荘園”が作られた。
ここまでが平安時代中期までの荘園の成立になります。初めは小規模でしたが有力者の 利権に伴って次第に大きくなっていきましたね。次回記事では平安時代後期以降の地頭の 出現などを書いていきたいと思います。



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