日本初の武家政権と呼ばれる鎌倉幕府―ですがイマイチ何が変わったのかピンとこない方が大半ではないでしょうか?
天皇・貴族に武士が取って代わったような印象を受けますが正確には違いますし、幕府トップである将軍は”源頼朝”が有名すぎて後の将軍は知らない方がほとんどでしょう。この記事では簡単に幕府の成り立ちから組織構成を解説します。
※今回は承久の乱までの記事です。
幕府立ち上げは成り行き?
源頼朝挙兵
ことの発端は以仁王の平家打倒の令旨。当時、平家勢力が隆盛の中で皇子の以仁王と源頼政が反平家の兵をあげて各地に令旨(皇子の命令書)を出しました。伊豆にいる源氏の嫡流である源頼朝も呼応して兵を-上げていません・・・。
この頃の頼朝さんは 33 歳、北条政子と結婚して娘が 2 歳のかわいい盛り、流人ながらも幸せな悠々自適な生活をしていたそうです。そんな生活の中で危険極まりない挙兵になど参加しませんでした。文覚上人という僧からも散々挙兵の決起を促されていましたが重い腰を上げていません。結局、反乱は失敗して以仁王と源頼政は亡くなりました。ここで挙兵せずによかったですね。
しかし平家は源氏に対して警戒を強めていき、京都でこんな噂が流れました。
「平家が源氏嫡男の源頼朝の命を狙っている!」
これを聞きつけた京都在住のめのとの甥の三好康信が頼朝さんに手紙を送ります。
「命が狙われています!逃げてください!」
こうなったらやられる前にやってやる!といった形で挙兵。北条氏など身近な武士たちと共に伊豆の目代(国守の代理人)の山木兼隆を襲撃し、ついに挙兵しました。
※ちなみに頼朝殺害の噂はガセだったようです。
鎌倉幕府の原型
山木襲撃こそ成功しましたが、その後味方は集まらずに逆に平家側の追討軍が迫ってきました。『石橋山の合戦』頼朝軍 300 人 VS 平家軍 3000 人・・・多勢に無勢、頼朝軍は惨敗します。
しかし頼朝さんは戦場から何とか逃げおおせ、箱根から海で安房(千葉県安房地方)に渡りました。そこで有力武士である“千葉常胤”“上総広常”を味方につけて武蔵(東京・埼玉)に進出、石橋山の合戦では敵方であった“畠山重忠”などの武蔵の武士団も配下に加えて南下し鎌倉に入りました。これが鎌倉幕府のスタートになります。
こんなにみんな仲間になるなら何故始め戦ったのだろう?と思いますが、“忠義”のようなきれいな話ではなく、各武士の“利益”のためでした。
千葉氏・上総氏とも平家方に自領を脅かされていたので自身の利益を守るために反平家である頼朝軍に加わりました。武蔵の武士たちも平家に恩義があるわけでなく、自らの土地を守るために平家方に味方しているので勝ち馬に乗っかる形で頼朝軍の味方になっていきました。かくして自領を守りたい広げたい武士たちの集まり-である原型の幕府組織図は以下のようにシンプルです。

- 御家人 ・・・鎌倉幕府の将軍に臣従した武士
- 侍所 ・・・御家人の軍事統制
将軍が武士に対して土地を保証・付与する代わりに武士は将軍に忠節を尽くす-将軍と『御恩と奉公』の関係で成り立っているのが『御家人』です。そして”反乱軍”としての集まりのため御家人を軍事統率する機関として『侍所』が設置されます。この時は政権というよりは寄せ集めの軍隊といったほうが正しいかもしれません。
頼朝さんが直接領土を認め、与えるので武士が従っている形で戦をするのに取りまとめはいるから、とりあえず侍所は作った形です。現代で言うと経理部などはなく社長と現場のみの新興会社といった感じでしょうか?
治承・寿永の内乱を経て組織化へ
平家滅亡前の組織図
源平合戦から奥州征伐までの戦乱を『治承・寿永の内乱』と呼びます。この戦いで作られた鎌倉幕府は戦乱とともに組織化されていきます。
木曾義仲や平家と戦いが進んでいく中で幕府の規模も大きくなっていき、役所を増やす必要が出てきます。追加部署は主に訴訟や土地管理の文仕事のため大江広本などの中級貴族を京都からヘッドハンティングして人員構成をしました。以下は1184年頃の組織図です。

▶追加・変更点
- 公文所 ・・・財政・所領安堵・給与の管理
- 問注所 ・・・土地相続や領地の訴訟手続き
- 追討使 ・・・敵対勢力と戦うための司令部
- 荘郷地頭・・・荘園・公領から兵糧米の徴収
政治機関として幕府の財政を司る『公文所』、民事訴訟を取り扱う『問注所』が軍事機関として『追討使』、徴税機関の『荘郷地頭』が追加され、行政・軍備が拡張されていきます。
平家滅亡後、源義経追討時の組織図
一年後、平家滅亡後の 1185 年は以下の組織図になります。

▶追加・変更点
- 政所 ・・・公文所が改称
- 惣追捕使・・・源義経の捜索機関
- 国地頭 ・・・国ごとの軍事・警察業務
- 京都守護・・・京都の警護・朝廷との交渉
当時の社会情勢は平家滅亡後に源平合戦の英雄・源義経と頼朝さんが対立、義経追討のための幕府軍が京都を占拠して義経は何処かに逃亡している状況です。
この状況を頼朝さんは利用して義経を捕まえる名目で『惣追捕使』『国地頭』を設置します。この 2 つの設置で幕府は全国に軍事・警察権を持つことが出来るようになりました。
日本史を選択していた人はもうお分かりでしょうか?これが後の『守護』になります。ちなみに現在、学校で教える鎌倉幕府が成立した年は 1192 年ではなく、この 1185 年だそうです。まあ組織というのはココでできた!というよりは徐々に出来ていった・・・というのが正確なのでしょうが。
源頼朝政権の完成
1192 年、頼朝さんがついに征夷大将軍に任命されました。武士の頂点に立った頼朝さんの下にあった組織が下図になります。

▶追加・変更点
- 守護 ・・・各国の軍事・警察業務
- 地頭 ・・・各荘園・公領から兵糧米の徴収
- 奥州惣奉行・・・陸奥国統治機関
- 鎮西奉行 ・・・九州御家人の統率機関
臨時で置かれていた惣追捕使・国地頭が『守護』となり常時配置されるようになります。これで幕府は全国に軍事的な影響力を持つようになります。また地頭も正式に朝廷から認可され公式制度になり、『奥州惣奉行』『鎮西奉行』といった地方統治機関も設置して全国展開を行います。
ちなみに今までは実力行使の幕府の独断で治めていました・・・また全国支配をしたわけではなく、『本所一円地』といって地頭はいない荘園(幕府が直接介入しない)もあります。あくまで幕府は朝廷と共存関係を図りました。
鎌倉殿の 13 人とその後
もう幕府は盤石か・・・と思った 1199 年、頼朝さんが亡くなります。53 歳でした。武士の頂点である鎌倉殿は息子の源頼家に継承されました。
頼家この時 17 歳、現代に置き換えると社長が亡くなって高校生の息子さんが会社を継ぐことになった・・・と考えるとまあ無理ですよね。そこで北条・梶原・比企・和田・三浦・安達などの有力御家人たち 13 人の合議制で頼家を支えることにしました。
某大河ドラマをご覧になっていた方はご存じのように有力御家人たちは権力闘争のため殺し合います。北条によって梶原・比企は滅ぼされ、比企サイド寄りだった頼家は幽閉後に暗殺されます。ザっと書いたけどひでぇな・・・。
北条が扱いやすい弟の源実朝を鎌倉殿に擁立し、外祖父の北条時政が実権を握りました。しかし争いは収まりません。1205 年『畠山重忠の乱』で武士の鑑・畠山重忠が滅び、同年『牧氏の変』で北条時政が子の北条政子・義時と対立、時政は伊豆へ追放されます。
これで平和になったかと思った 8年後の1213年『和田合戦』で鎌倉が戦火に襲われます。この戦いで勝利した北条義時は元々任じられていた政所トップ(別当)に合わせて和田義盛が任じられていた侍所のトップも兼ね、後に続く鎌倉幕府『執権』として事実上の幕府トップになります。

ほぼ北条氏の一強になった中、もう御家人間の争いはないだろうと思った 1219 年、鎌倉殿の実朝が暗殺されます。下手人は頼家の遺児である公暁、つまり実朝の甥っ子です。そんなことあるのか・・・。
この事件に京都の後鳥羽上皇は幕府に対し、というか北条氏に不信感を抱いていきます。ついに 1221 年 5 月 15 日、後鳥羽上皇は北条義時追討の命令を発しました-『承久の乱』です。
しかし挙兵は虚しく戦いは幕府軍の圧勝に終わります。結果的に勝利した幕府の力が強まり、その中心は北条氏が担うことになります。
承久の乱後の幕府は次回記事で
幕府権力の中心は北条氏ですが、その他の有力御家人も健在です。また北条氏はあくまで形式上は組織の No2 であってトップは将軍です。ただ源氏将軍は途絶えてしまったので(半分殺したのは北条氏なのですが・・・)京都から高貴な身分の人を将軍として迎えます。ただ承久の乱後も幕府の内部抗争は続きます・・・
こちら次回以降の記事でアップ予定です!


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